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「わたしにとどまりなさい」ヨハネ15:1~12

(飯田浩章兄によるメッセージ)

 

ヨハネの福音書13章から7章は、弟子たちの足を自ら洗われた主イエスさまが

、十字架を前に死を覚悟して語られた「告別説教」ともいわれています。

当時ユダヤ教ではぶどうの木は選ばれた民ユダヤ民族を表し、このユダヤ民族

だけが神とつながっているので救われる民であると理解されていました。しか

し選民意識にあぐらをかいてイスラエルの民は堕落していきました。この15

章ではイエスさまは「私はまことのぶどうの木」であり、信じる人たちはその

枝であることを宣言されました。

私たちは、主イエス様につながる枝として生きることを認識していても、つい

つい「もっと大きな、立派な実を結びたい」と頑張ってしまいます。しかし、

この箇所でイエスさまが言っておられるのは、そうではなくて、ただイエス様

につながることです。しかも、私たちが頑張ってつながるのではなく、イエス

さまがつながっていてくださる。たとえ、私が手を放しても、イエスさまは離

さない。そして、イエス様は信仰・希望・愛を受け取ってほしいと願っておら

れます。

イエスさまの喜びは、互いに愛し合うことです。自分自身のようにではなく、

イエス様が愛してくださったように愛するということです。そのためにもう一

度イエス様が私たちに下さった福音を考えましょう。罪びとであった私たちに

下さった恵みの福音を覚えましょう。

ただただ主の前に砕かれた魂となることが互いに愛し合うことに通じます。

砕かれた砂の様な魂は互いに一つになることが出来ます。

しかし互いが岩のようにごつごつしていたら一つにはなれません

この告別説教からほどなく、弟子たちは、一人残らずイエス様を捨てて逃げ去

りました。しかし、イエスさまはそんな弟子たちでさえも「友」と呼んでくだ

さったのです。そのイエスさまが、私の手をつかんで離さない。そして、豊か

な信仰と希望と愛を与え続けてくださっています。さあ、その手を握り返して

、共に豊かな実りに期待して歩んでいきましょう。