「信仰は、望んでいることを支えて、目に見えないものを見させるものです。」
アブラハムは今までの生活に別れを告げて、神のことばと約束を唯一の支えとして、まだ行ったことのない見知らぬ地へと旅立ちました。その旅の行程には多くの辛い試練が待ち受けていました。
時には不信仰になって神の約束を曇らせてしまうこともありました。
しかし、アブラハムはその都度、悔い改めて、信仰の高嶺めざして、主なる神に従い通しました。
神はアブラハムに「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」と語られました。
アブラハムは生存中に、神の約束を見ることはできませんでしたが、はるか遠くに約束されたものを信仰によって見ていました。アブラハムは神を主と信じました。その信仰によって義とされました。
それから約2000年後にイエス・キリストがアブラハムの子孫として誕生しました。
主なる神は、異邦人も信仰によって義とされること、信仰によって生きる者はアブラハムの子孫であり、アブラハムと共に祝福を受けることを約束してくだっています。
私たち日本のキリスト者も、かつては異邦人でしたが、イエス・キリストを信じてアブラハムの子孫とされました。
私たちも、信仰の父に見倣い①主のことばを聞き②主のことばに従い③主を礼拝していきましょう。信仰がより成長するように、一歩一歩、信仰の高嶺をめざしていきましょう。
私たちが大きな試練の崖を登れない時、主イエスが手を差し出して引っ張り上げてくださいます。道に迷うときは道案内人の聖霊が高嶺へと導いてくださいます。高嶺をめざして上っていくと、今まで見えなかったものが見えてきます。自分の抱えていた重荷がいかに小さく軽いものであったかを知らされます。主が共に重荷を担ってくださることを知るのです。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで一心に信仰の高嶺をめざしましょう。その先には約束の天の御国が私たちのために輝いています。