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「立ちなさい。さあ、行こう」マルコ14:32-42  飯田浩章兄

イエス様が、ゲッセマネで「アバ父よ、あなたは何でもおできになります。どうかこの杯を私から取り去ってください」と祈った時も、「立ちなさい、さあ行こう」と弟子たちに仰った時も、状況は何も変わりません。目の前の十字架という苦難の道は、変わらずにあるのです。何が変わったのでしょうか。

イエス様はこのゲッセマネの祈りの中で、ご自分が人々の罪を背負い十字架につくことこそ「神のみこころだ」ということを、はっきりと自覚して怒りの杯を飲むことを決意されたのです。イエス様は、このゲッセマネの祈りの後、驚くほど自信に満ちた態度を示されました。そこには恐れ、もだえる姿はありません。少しの迷いも不安もありません。ただ、ご自分の前に置かれた「十字架」へと向かって行かれたのです。ゲッセマネの祈りは、「苦しみ」から「確信」へと変わっていく祈りだったのです。

神の与える平安とは、すべての困難が解決して与えられるものではなく、明日も変わらない状況のなかでも神に祈り、み言葉をいただき、神のみ心のうちに生きていく時に与えられるのです。