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「律法の働きは罪を示す」 ローマ人への手紙7:7~13

律法は、創造主なる神が定めた法です。律法は、人間のあるべき姿を教えています。神が聖く、正しく、善い方なので、神の定められた律法・戒めも聖く、正しく、善いものなのです。律法に対して、私たちのうちにある罪は、汚れており、不正に満ち、悪いものです。白と黒を並べて見れば、その違いが際立つように、聖く・正しく・善い律法と汚れ・不正・悪に満ちた罪とを比べてみると、その違いがくっきりと浮かび上がってくるのです。

私たちは、神の律法によって善悪を知り、律法を行おうと願います。確かに律法は、私たちに何が善であり悪であるかを教えはします。しかし善を行う力・悪を退ける力を私たちに与えることはできません。かえって律法を行なおうとする私たちのうちに善がなく、悪がある事実を浮き彫りにします。パウロは、自分の内に潜む罪が、律法・戒めによって機会を捕らえて、その本性を現し、彼を欺いて支配し、霊的に殺したことを体験しました。

パウロは、律法・戒めではなく、罪こそが彼に霊的な死をもたらす事を明らかにしています。律法は罪を誘発し、誘発された罪はパウロに霊的な死をもたらしました。戒めによって罪が罪であることが明らかになり、罪の破壊力が露わになりました。パウロは、外面では立派なユダヤ教徒・熱心なパリサイ派である事を自負していました。しかし内面では、私たちと同じように罪の問題で悩み苦しんでいました。

私たちは、キリストと共に十字架で罪と律法に対して死に、キリストと共によみがえって神に仕え、義の実を結ぶ者となっています。内住しておられるキリストの御霊に力づけられて私たちは新しい歩みをしていくことができます。私たちは、自分では律法を行ない得ないことを受け入れていきましょう。キリストにあって自分は罪と律法から解放されていることを確信していきましょう。御霊に助けられて、神の律法を行なっていきましょう。