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「みことばの礎の上に」   ルカ6:46~49 池淵亮介KGK主事

私たちは、どのような態度で普段みことばを聞いているのでしょうか。「主よ、主よ」とは言うものの、自分の祝福を求めているだけ。「いつも自分の都合のあうように神様に動いて欲しい」。こうなってしまうと、それはイエス様ご自身を求める信仰ではなく、利益・祝福信仰となってしまいます。しかし、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人」とは、どういう人でしょうか。ここでは、二人の大工によって明らかに語られます。みなさんが大工だとして、「岩の上に土台を据える」作業を考えてみましょう。これは、「はい、見つけた」と簡単にむき出しの岩を探し出して、その上に土台を据えることではありません。これは、地面を深く掘り下げて出てくる岩盤のことを指しています。夏場の日照りの中で乾燥した粘土質の土がガチガチに固まった地面を岩の岩盤にぶち当たるまで掘り下げるという骨の折れる作業と根気と忍耐と労力が、この「御言葉を聞き、そのことばに従い、言葉どおりに行う」歩みの例として語られているのです。「はい、はい、わかりましたよ」と、みことばをただ聞くだけなら簡単です。しかし、聞いた御言葉を、自らの生活に適用して、御言葉に自分を聞き従わせることは、それだけ根気と忍耐が要ること、日々の努力が要る作業であるということです。そこで、この面倒くさい作業を省略し、適当に御言葉を聞き流す時、それは土台を「にわか仕立て」で据えようとするのに似ています。にわか仕込みでも、きちんと家は建ったように見えます。しかし、必ず土台が試される、試練の時、困難の時は、やって来るという忠告が語られます。あなたの人生に確かな土台を築きなさいと聖書は語ります。そして、それはキリストの言葉によるのであると。だからこそ、今、みことばを聞くだけではなく、このキリストの言葉の上に、あなたの人生の礎を築きなさいと聖書は語ります。確かな土台であるキリストの上にこそ、決して揺るぐことのない人生があるのです。